四季を越えて

"「四季を知る」1度目の四季を越えて "

「春はあけぼの、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて。
かの人が書いた文の意味が、
ようやく少しずつ理解出来るようになってきた。
四季は、まるで風景の細部に色付けする
色とりどりのインクみたいに、
日常に溶け込んでいる。
その研ぎ澄まされた自然のディテールを拾い集め、
肌で感じる事で、
今迄見えていなかった世界を捉える。」

この言葉を書いてから、
風のように一年が過ぎ去っていった。
完全な思い付きで走らせ始めた
「四季を知る」であるが、
思えば様々な所に足を運んだものだ。

春は吉野へ行き、千本桜を観ながら葛餅を頬張った。開店したばかりの茶屋に人は少なく、理想の花見がそこにはあった。奥千本はまだ咲いておらず、吉野水分神社を過ぎたあたりから空気の質が鋭くなり、しぶとく残る冬の気配を感じることができた。虫たちが春を思い出し、そこかしこで動き回っていた。大きな桜には沢山の宿木が萌えていた。古くなったマニ車が、吉野に訪れる人の数を告げていた。

夏は白浜へ行き、照りつけるような太陽を浴びた。ビタミンDが体内でドバドバと作られていくのを感じた。真白な砂浜から抜ける海の青が真実の夏を体現しており、存在しない思い出が蘇ってくる感覚を何度も味わった。概念化された強い夏のイメージがそこにはあり、訪れる人々を吸収してその強度を高めていた。

もう少しおとなしい夏はないかと向かった右会津川、奇絶峡付近では子どもたちが川遊びをしており、こっちこそが知っている夏の記憶だと緩んでいた記憶の紐を締め直した。山間を登ると巨石と一体化した建築物があり、不動明王が祀られていた。すこしひんやりと冷たく、黴臭いその室内は、不思議と居心地が良かった。

秋は鞍馬山へ行き、枯れ行く木々の匂いを嗅いだ。2018年の夏に襲いかかった台風の爪痕が多く残されており、御神木の枝葉は抉り落とされていた。片足を冬に置いていた時期だったので、山頂付近では仄かに雪が降っていた。虫の気配は殆ど無く、風が枝を揺らす音と、私達の歩く音だけが静かに鳴っていた。

宝ヶ池の畔で鴨と戯れ、顔ハメパネルに顔をハメまくった。鴨もどうやら寒そうにしているらしく、身を寄せ合っており活発に動く素振りは見せなかった。誰も食べない渋柿を見て、経験の重要さを知った。地獄のように長い吊橋を走り抜けた。山間から見える都市はいつも姿を変えずにそこにあり、日々変わりゆく山々とのコントラストを強く感じた。

冬は金剛山へ行き、雪で凍った地面の恐ろしさを味わった。急斜面に積もった雪が踏み固められ、大きな氷の板へと変容していた。滑落した。10m程滑り落ちた私は、アイゼンの購入を決意した。しんしんと降る雪は人々の耳を真っ赤にし、音を吸いながら積もっていた。吸い取った音や温度や色が層になり人々を凍えさせ、そして私を転ばせるのだ。
山小屋で食べるカップヌードルの美味さに震えあがった。低い気温、適度な運動、休息、そして栄養補給。黄金の美食がそこにはあった。
そこらじゅう雪の白で覆われた木々や建物、銅像があり、その色の濃淡に改めて気づいた。差し色によって、普段よりも注目を浴びやすくなっているのだろう。
その後皆で冬の幸を買い込み、鍋などを作りつつきながら団欒した。冬は魚類に沢山の脂が乗っており、切り身を醤油につけると油膜が広がった。冬がどうにも苦手な私だが、冬が食物に齎す影響に関しては広い心で受け入れるつもりである。

四季は少しずつグラデーションを以て移り変わっており、一つの季節のみになる時間はとても少ない。どの季節にも必ず、前後の季節が少しずつ顔を出している。そのグラデーションの途中の時間こそ、四季を四季たらしめるのに欠かせない存在なのだ。一足先に芽を出した植物が寒そうにしているさまに、まだ肌寒い気温の中半袖を着る人々に、防波堤から見る海のくらげが多いさまに、動物たちが食物を求め山が少し騒がしくなるさまに、次に来る季節への思いを馳せる事ができるのだ。待ち望む事こそが四季の醍醐味であるのだろう。そして、だからこそ辿り着いた四季はどれも、少し切ない。2018年度の「四季を知る」は意図せず、その四季の切なさを感じる旅となった。

いつでも好きな野菜が食べられ、室内の温度は調整され、比較的簡単に移動が出来る現代に於いて、四季はある意味での不自由さを生み出す側面が見て取れる。その不自由さを改めて知ることによって、我々はその不自由を日々の「奥行き」として捉えることが出来るようになるだろう。四季はいくつものレイヤーになって日々に溶け込んでおり、我々の日々に小さなサインを送っているのだ。今回の旅でそのサインを受け取っている人々が、今も確かに居ることを知った。敬いと畏れをもって受け取り、すこしの返事を返せるような人に成りたいと、今までの写真を見返しながらぼんやり考えた。

我々は引き続き「四季を知る」を行っていく。
未だ見たことのない四季の一面を知り、
自らの糧とし、
そして我々の表現へと
繋げていくつもりだ。
2019年度は大枠としての四季ではなく、
得られる恩恵、
つまり食物へと
フォーカスを狭めてみようと考えている。
ありがたい事に年中食に困ることのない
今の日本で、旬という言葉の意味を、
そして有り難みを五感で感じたい。
まずは春、鰆なんてどうだろうか。